第4章 揺らぎながら、教師としての“軸”を探して
「すべての教育活動は授業から」
この言葉を初めて聞いたとき、胸の奥にスッと入ってきたのを覚えています。
教員として、どれだけ行事や部活動に力を入れても、やっぱり最後は「授業」に立ち返る。
授業こそが、教師の“根っこ”なのだと。
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だからこそ、私も若いころは授業づくりにのめり込みました。
先輩の授業を見てはノートを取り、
研修に行っては「学び合い」の理論に触れ、
自分なりに取り入れようと試行錯誤する日々。
「生徒が楽しめる授業を」と思って工夫していたけれど、
ある時から「楽しさ」よりも「伝わること」に重きを置くようになりました。
うまく説明できないけれど、
「楽しませる教師」ではなく、「伝わる授業をつくる教師」
でありたいと思うようになったのです。
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コロナ禍がもたらした、急な“変化”
そんな中、コロナ禍がやってきました。
学校は急速にICT化の波に飲み込まれ、
オンライン授業やデジタル教材が次々と導入されていきました。
現場は混乱。
「ツールの使い方」ばかりが話題になり、
肝心の“授業の中身”が置き去りにされることも多かったように思います。
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私は研修委員として、その波のど真ん中にいました。
「これ、どうやって使うの?」という質問が絶えず飛び交い、
機械のトラブルや制度のズレにも対応しなければならない。
「とりあえずやってみよう」と前向きに取り組んでいたつもりが、
いつのまにか心がすり減っていくのを感じていました。
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上からの指示は次々と降りてくるけれど、現場の声が届くことは少ない。
“理解されない疲れ”というのは、地味に効いてきます。
ツールを使うこと自体が目的化し、
「これで本当に授業が良くなっているのか?」と、ふと我に返る瞬間が何度もありました。
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「できる人」に白羽の矢が立つという現実
急な変化の中で、どうしても“対応できる人”に仕事が集中します。
ICTに詳しい、柔軟に動ける、責任感がある——
そんな人ほど、知らず知らずのうちに負担を背負ってしまう。
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喜んで受け入れられる人もいるけれど、誰もがそうではない。
良いことでも、悪いことでも、変化には必ずストレスが伴います。
それを軽視してしまうと、摩耗していく人間はあとを絶たない。
私はその現実を、身をもって感じました。
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揺らぎの中で見えてきた「教師らしさ」
それでも、あの時期を経て、少しずつ考えが変わっていきました。
“教師らしさ”とは、完璧に対応することではなく、
「揺らぎながらも、自分の軸を見失わないこと」なのだと。
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ICTも、授業の工夫も、すべては手段。
その先にある「伝わる授業」「心を動かす学び」を忘れなければ、形はどうあってもいい。
そう思えるようになってから、ようやく少し楽になった気がします。
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振り返ってみると、あのコロナ禍の混乱期が、
私にとって「教師観を再定義する時間」だったのかもしれません。
授業の形が変わっても、“教えることの意味”は変わらない。
そう信じられるようになった今、ようやく次の一歩を踏み出せそうな気がしています。
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