ある教員の記録 ― 教壇の片隅で考えたこと ―第5章 部活動

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教員の記録 Teaching note|ある教員の記録

第5章 部活動|頑張りすぎた先にある学び

教員になって最初の5年間、私は「部活動は教員の仕事」だと疑いませんでした。
休日返上、夏休み返上。
「生徒のため」という大義名分のもと、毎日のようにグラウンドに立っていました。

でも、正直に言えば——半分は“自分のため”でもあったのだと思います。
好きなスポーツを担当できたこともあり、指導というより「もう一度青春をやっているような感覚」がありました。
自分のチームができるという喜び、勝利をつかむ瞬間の高揚感、
学生時代には味わえなかった達成感を、生徒たちを通して感じていたのだと思います。

我が子の部活に夢中になりすぎる保護者がいるように、
私は「顧問」という名の親になっていたのかもしれません。


いつの間にか、チームの外へ引っ張り出されていく

チームが強くなるにつれて、少しずつ状況が変わっていきました。
他校とのやりとり、地域の大会の運営、区の教員を取りまとめる役…。
気づけば、自分のチームだけに集中できる時間は減っていきました。

断るという術を知らなかった私は、
押し付けられた役割を「自分の力が認められた証」だと都合よく解釈していました。
でも、それは本当の意味での“評価”ではなかった。
疲弊していく自分を見ないふりをして、ただ走り続けていたのです。


そして訪れた、突然の崩壊

そんなある日、思いもよらぬ“裏切り”に遭いました。
身に覚えのないことで責められ、心ない言葉を浴び、
それまでの努力がすべて無意味だったかのように崩れていきました。

「部活動は仕事じゃない」
その一言が、まるで私の存在を全否定するように響きました。

休日も犠牲にして、自分の時間も削って、
それでも「生徒のため」と信じてきたのに。
気づけば、搾取され、時間を奪われ、
最後には生徒たちからも「いらない」と突き放されました。

あの瞬間、すべてが虚しく感じられました。
積み上げてきたものも、信じてきたものも、
すべて砂のように指の間からこぼれ落ちていくようでした。


一生懸命やることを、やめた

それから、私は決めました。
もう、部活動に“すべて”をかけるのはやめようと。

時代が追いついてきたのか、
今では「部活を持たない」ことも珍しくなくなりました。
あの頃は、ただ時代が早すぎたのかもしれません。

誰かが一生懸命やることを否定はしない。
でも、私はもう自分のステージから降りようと思ったのです。

人にはそれぞれのステージがある。
子育てで一度前線を離れる人がいるように、
私も「がむしゃらに全部に一生懸命になるステージ」から降りるだけ。

それは逃げではなく、
“自分を見つめ直すための選択”です。

今振り返ると、あの頃の私は「生徒のため」という言葉の下に、
自分自身を見失っていたのかもしれません。

でも、あの経験があったからこそ、
「働き方」や「自分の軸」について、真剣に考えられるようになった。

あの頃の私にはもう戻れないけれど、
今の私は、ようやく「無理をしない教師」でいられる気がします。

第6章 職員室という名の“社会”

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